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北條楽只
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前人未踏ギネスを超える世界最長祈りの絵巻 ハワイ日系人歴史絵巻
今日の平和が,日系人の多大なる犠牲のうえに成り立っていることを知って欲しい。
横浜開港150周年記念/横浜文化体育館にて初めて全作品を展示。
会場には約1200人が訪れ,描かれた苦難の歴史に涙する女性の姿も見られた。
日本画家:北條楽只が1994年より約14年の歳月をかけて完成させた「ハワイ日系人歴史絵巻」
ハワイに移住した日本人や日系人の歴史を描いた絵巻物は全34巻。登場人物は12万人に上ります。すべてをつなげると,その長さは620メートルにもなり,ひとりの画家が描き上げた絵としては世界最長です。2011年現在,ギネスの記録は500mほどでですが,残念ながら幅1m以上という規定にさえぎられ,ギネスブックに登録することはできません。
絵巻は,13世紀ごろハワイに日本人が漂着したとされる場面から始まり,明治時代のハワイ移民政策,太平洋戦争やえひめ丸事故など,今日にいたるまでのハワイの歴史をたどります。和紙に岩絵の具とポスターカラーで1081場面が描かれています。
絵巻制作の原点は30年ほど前。映像カメラマンだったころ,ハワイの日系1世の女性を取材したのがきっかけ。養老院に暮らす彼女が,涙ながらに「祖国に帰りたいが,もう帰れない」と語る言葉が胸に残り,移民の苦難の歴史を掘り起こして後世に伝えたいという思いで制作を開始。「当初は,真珠湾攻撃くらいしか知識がなく,50メートル程度の絵巻で終わると思っていた」のですが,その後何度も現地に足を運んび,日系人の証言や現地の新聞など膨大な資料をもとに,服装や兵器にいたるまで時代考証を重ねるうち,絵巻の長さが次第に伸びていきました。絵巻の最後は,2007年6月に横浜港にハワイから古代式カヌーが入港したところです。「横浜港はハワイ移民が始まった港。長い絵を終わらせるのにふさわしい場面」と最終カットに決めました。

ハワイへ漂流した最初の日本人から,官約移民,サトウキビ労働者の苦難,やがて真珠湾攻撃に始まった太平洋戦争,二つの祖国の狭間で苦しんだ1世,志願しアメリカ兵として勇猛果敢に戦った2世部隊など,歴史を追って詳細に描いた絵巻からは,ハワイへ渡った日本人移住者の歴史が戦争と切り離せないものであることが分かってもらえるでしょう。この作品には,ひとつの民族が移住,融合していく過程を通じて,鎮魂と世界平和を訴えるメッセージが込められているのです。


海外移住資料館だより/2009年Summer16号 巻頭インタビューより
「帰るに帰れなかった」一世たち
ハワイを初めて訪れたのは23歳のとき。もう40年近く前になるけど,そのころは90歳を超えるような一世がまだご存命で,養老院のようなところで暮らしておられた。一世の多くはサトウキビ畑の労働者としてハワイに行き,永住するつもりはなかったけれど,帰るに帰れないまま年が経ち,年を取るほど日本に対する想いを強くしているようでした。だけど,生活が精一杯で故郷に錦を飾るのは難しい。そんな一世たちがたくさんいたんです。なるほど,ハワイには日系人の成功者ももちろんいるけれど,それは決して大多数ではない。多くはサトウキビ畑の労働者として働き,ハワイの土になっていくのだという話を聞かされました。
サトウキビ畑で働く「元年者」の移民。ハワイには,1885年に日本政府が送り出した「官約移民より前の1868年に,政府の許可を得ずに海を渡った日本人がすでにサトウキビ畑で働いていた。


1914年7月,東京大相撲一行がハワイで興業。ハワイ中の日本人移住者が相撲見物のために耕地から臨時列車に乗って会場に向かった。7月11日から17日までの6日間,ホノルル市の運動公園で行われた相撲興行は,横綱太刀山の土俵入りで観衆を沸かせた。

アロハシャツは,日本人が日本から持ち込んだ和服や風呂敷などをほどいて,子どもや自分の服などに仕立てたシャツが広がっていったのが起源だと言われている。
簡単な気持ちで描き始めたけれど・・
30代になって,仕事の余暇に日本画を習い始めました。自分なりの絵が描けるようになってきた頃,また仕事でハワイに行き,より深くハワイを知りました。 その後,ハワイのカラカウア国王が明治14年に横浜に来たときの様子を描いて,お世話になった日系人連合協会に寄贈したんですよ。すると,当時の会長さんがとても喜んでくれて,「ハワイ移民の歴史を描いてくれないか」と言う。簡単な気持ちで引き受けたのがこの歴史絵巻の始まりです。
当時の私は,せいぜい真珠湾攻撃があったことくらいは知っていたけれど,まぁ50メートルも描けば完成するだろうと,タカをくくっていたんです。でも,描き始めると,いろいろな事を知り,移民の苦しみなんかもわかってくる。途中で手を抜くわけにはいかなくなりました。
一番苦労したのが歴史考証。髪型ひとつにしても今とは違うし,当時の乗り物や建物,アロハシャツをはじめとする服装はどうだったかとか,そういった資料を調べることに相当な時間がかかりました。620メートルの中には,12万人近い人物が描かれています。


ハワイの歴史=日系人の歴史
ハワイを知れば,あれもこれも,実は日本人の仕事だったなんていう話がたくさんある。農業や漁業がいい例で,トマトやピーマン,きゅうり,ナスなど野菜の多くは日本人が種や苗を持ち込んで定着させているし,沿岸の浅瀬に網を入れて小さな魚なんかを捕っていた当時のハワイに,漁船を使った漁のやり方を教えたのも日本人。ワイキキビーチに立ち並ぶホテルに水を供給するための水路も,実は日本人が掘った水脈を利用しています。 日本人は表舞台で活動をすることは得意じゃなかったけれど,裏方では地道な貢献をたくさんした。それがいまのハワイの基盤になっているんです。ハワイに渡った日本人,日系人の歴史がなければいまのハワイはないといっても言い過ぎではありません。
また,絵巻物には戦争の場面がたくさん登場します。日中戦争が始まって太平洋戦争,有名な2世部隊,朝鮮戦争,ベトナム戦争など。そこでは,多くの若い日系人が犠牲になりました。とてつもなく大きな犠牲を払った日系人がいたからこそ,ハワイの平和がある。そして,ハワイの犠牲の上に成り立つアメリカ合衆国の平和を,私たち日本人も享受している。描き進めるうちに,その事実をなんとか残したい,日系人の歴史を通じた反戦・平和と鎮魂のメッセージ伝えたいと思うようになりました。
1941年12月7日,日本海軍はハワイを攻撃。航空母艦6隻から飛び立った攻撃機183機は,カフク岬からハレイワを経て7時55分に真珠湾に到着。奇襲作戦は成功し,太平洋戦争が始まった。


2007年1月,星や風,波をたよりにした伝統的な航海術によって針路をとるハワイの古代船「ホクレア号」がハワイを出港。各地の港を経由し,6月9日に最後の寄港地である横浜に到着した。ハワイ移民を送り出した横浜の港では,大勢の関係者が出迎えた。
ハワイの本当の姿を知って欲しい
絵ひとつひとつは大したことないかもしれない。でも,すべてのシーンに魂を込めて描きました。たとえば,戦争に志願する日系人の若者のシーン。志願して,身体検査を受けて,パスすると船に乗って本土へ渡って,行進して戦地に赴く。でも,その若者たちの3割が負傷して,3割が戦死して,ハワイに帰って来ることができたのはほんのわずかですよ。それを分かっていながら描くことが辛くて,なかなか進めないこともありました。でも,描かないわけにはいかない。苦しかったですよ。
日本人にとって,ハワイは身近なリゾート地です。ワイキキビーチで泳いで,ショッピングをして,美味しい物を食べて,それもいいかもしれない。でも日本人ならもっと深いハワイ,特に日系人の歴史,苦労の歴史を知ってこそハワイを訪れるべきだと思います。ハワイの日系人たちの多大なる犠牲のおかげでいまの平和なハワイがあるということを,ぜひ若い人たちにも知ってもらいたいですね。